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オロデス1世の治世最終回
ニサ出土の陶片史料2639にはパルティア北東部に前78/77年に以前の支配者とは別の新しい王の登場を記録している。
ミトラダテス3世の兄弟(貨幣NO.S30)と思われるこの人物(とその皇子)は、オロデス1世の貨幣を利用する際にデザインを丁寧に修正して自身の貨幣を発行している。
また、バビロン天文日誌において、女王の併記のない王アルサケスとのみ記録する形式に戻るのはオロデス1世が失脚してからである。
オロデス1世の在位中に、仮にミトラダテス3世かシナトロケスが北東諸州と本土パルティアにおけるオロデスの勢力を駆逐したならば、バビロン天文日誌の記録に王妃の名に加えてオロデス1世の個人名が再び記入されたはずである。
オロデス1世の後継アルサケスは、紀元前69/68年まで10年間、個人名や女王名を記載する必要がない単独支配を維持したと思われる。
残存する資料はスーサを平定したオロデスに対する真の脅威が、パルティア北部に登場した事を示している。この次世代の皇子が勢力拡大のため動き、パルニ族の間に次第で支持を集めるようになったのだろう。
しかしながらオロデス1世の死亡の年代について、正確な日付は判明していない。
アルサケス王と妹にして王妃イスプバルザに関する記録の最後の日付は、バビロニア式セレウコス暦236年9月(紀元前76年12月5/6日〜紀元前75年1月3/4日)に始まる天文記録の断片である。
残念ながら、月や星座などの天文記録の詳細が欠けているために236年の何月までの記録であったかを読み取ることが出来ない。
しかし他の短い日誌の断片を比較してオリジナルのテキストを幾分か復元することが出来る。その作業の結果、この粘土板史料の記録期間は2か月間以下、つまり12月まで下ることはできないのではないかとされている。
そして断片が本来属していたオリジナルのタブレットが年末の4ヶ月分の記録であると仮定できるため、オロデス1世の最後の記録は236年12月までとすることが出来るだろう。
そして次の年代の判明する粘土板史料は、237年1月4日(紀元前75年4月5/6日)であり、そこにはオロデス1世時代の「王(の一人である)アルサケス(アルシャカ・ム・ルガル)」と言う書式から「アルサケスが王である(アルシャカ・ア・ルガル)」に戻り女王の名前も併記されなくなったのである。
「173年、即ち237年、アルサケスが王である。第1番目の月の4日目…」
この記録により、236年中にバビロンにおけるオロデスとその王妃の支配が終わったと解して問題ないであろう。
一方、スーサで毎年発行される銅貨の変化は、オロデス1世がカブネシュキール2/3世に対して勝利した紀元前77年1/2月(バビロニア式セレウコス暦234年11月、マケドニア式セレウコス暦235年5月)の後もその支配は安定せず、マケドニア式セレウコス暦236年ディオス月1日(紀元前77年9月19/20日)までにはスーサが新たなアルサケスに奪われた事を示唆している。
このアルサケス朝の皇子は、ニサで権威を認められていたミトラダテス2世の晩年の若い息子と同一人物と思われる。
彼はスーサ征服後、紀元前75年3/4月までにバビロンにも進軍して、オロデス1世を殺害あるいは追放したと思われる。
この皇子がティグリス河畔のセレウキアで発行した初期のテトラドラクマ貨幣の肖像は、成年(15歳)して間もない、年若い人物を描いている。オロデス1世のS34.1貨幣と発行が重複するセルウッドS30.12には同じΣYΜの文字が打たれている。
オロデス1世に対する勝利の直後にS30の貨幣を発行したとすると、彼がスーサを攻略したとき、貨幣の発行した姿よりもさらに2歳若かったという事になる。あるいはバビロニアに進撃したとき、彼は未成年であったという可能性もあるだろう。
オロデスが治世後半に女王の名を併記するにもかかわらず個人名を記録に書かれなかった時期があるのは、ライバルであるこのアルサケスが正式に王号を名乗れない未成年者であったためだったのかもしれない。もっともフラーテス2世は未成年であってもアルサケスを名乗っているので説得力はないが…。
後世のアルサケス朝の貨幣S49の発行者は特定できていないが(以前はパコルス1世の貨幣とされていたが疑問が呈されている)、おそらくはフラーテス4世の息子の一人であろう。
彼も諸王の王と名乗りながら、顎髭のない肖像を一貫して貨幣に刻ませている。またパコルス2世(在位紀元78年〜105年)がヴォロガゼス2世と玉座を争ったときに、彼が年少であった事が知られているが、パコルス2世はその即位時に発行した貨幣(S73)において、顎鬚も口髭もない顔を上に向けているデザインを採用している。
オロデス1世を破ったアルサケス朝の若き皇子は画像上は薄い髭をわずかに認めるため、彼らよりは多少年を取っていた可能性がある。紀元前78/77年にスーサを奪ったとき、彼は13〜15歳くらいであったのではないだろうか。
セレウキア発行のものとされるS30.12の貨幣は、対応する発行者や時期を同定することが困難な特異なものである。
裏面と表面を打刻するための新規のダイスが間に合わず、それぞれ異なる古い貨幣のダイスを再利用したり、既存の貨幣を再打刻したため分類が難しくなった表裏不一致貨幣、「mule」貨幣の一例であろうとされる。S30/S33のミュール貨幣は同じ皇子のより古い肖像を示している。
これはシナトロケス1世が玉座の獲得に最終的に失敗した紀元前70年以後に、作成されたものと考えられている。
S30.12のテトラドラクマ銀貨は表面の胸像は王冠の上に3本の波状の文様で髪を表現している。これは初期のS30貨幣の髪型に酷似しているが、その後描かれなくなったデザインである。
また初期の貨幣状の紙の一部は王冠より下の王の額と頭部にかかっている。これは同時期のスーサの銅貨にもみられる意匠である。
初期のS30銀貨とスーサの銅貨と同様に、マケドニア式セレウコス暦235年にS34.1貨幣と同時あるいはその直後にS30.12の貨幣が発行された可能性が高いであろう。
こうした「mule」貨幣は後のアルサケス発行の貨幣にも事例が見出される。
ヴォノネス1世(在位8年〜12年)のS60とアルタバノス2世(在位10年〜38年)のS61貨幣。
ヴァルダネス1世(在位40年〜45年)のS64.22-30とゴタルゼス2世(在位40年〜51年)のS65.1-3。
ゴタルゼス2世のS66.29貨幣とヴォロガゼス(在位51年〜78年)のS68.1。
ヴォロガゼス2世の大多数のS72貨幣とパコルス2世のS73貨幣。
…などである。
おそらくS30.12貨幣は紀元前77年初期のエリュマイス王国を平定した直後の時期に、既存の貨幣用ダイスを改修し作られたのだろう。
エリュマイス王国征服後、オロデス1世は新しいアルサケス位の請求者に、東半の地方総督の統治権に関して敗北を喫したのだろう。
この敗北の際(オロデス1世が確かにティグラネスの孫だったと仮定して)、パルティアに表れたライバルに対して、祖父であるティグラネス2世からオロデス1世は支援をほとんど受けられなかったようである。
この理由は、ティグラネスが紀元前79年(あるいは紀元前83年)からのシリア遠征により、東方に援軍を送る余裕がなかったためと考えられる。と言うよりも、ティグラネス2世不在をついてエリュマイス王国がアルサケス朝の皇子と同盟して蜂起したと考えるべきだろう。
ティグラネス2世はシリア平定後、挽回できると考えたかもしれないが、実際はローマとミトラダテス6世との戦争に巻き込まれ、こちらに掛かり切りとならざるを得なくなった。アルメニア王国の後ろ盾を失ったオロデス1世は、ティグラネス2世の操り人形であった事を嫌われ(イスブバルザ王妃もティグラネス2世の子か孫かもしれない)、メディアとパルティア、ヒュルカニアのパルニ族に見切りをつけられた。パルニ族は忠誠をミトラダテス2世の末子に切り換え、この王子を支援したと思われる。
その背景には、おそらくはオロデス1世とミトラダテス3世との内戦の隙をついて、パルティアを伺い始めたシナトロケス1世とサカ族の存在があったと思われる。この若いアルサケスは治世の初期に、シナトロケス1世の進撃に対して、カスピの鉄門以東でこれを防ぎ一定の勝利を得たことで、パルニ族の支持を盤石にしたのかもしれない。
判っているのは再起したシナトロケス1世の野望はまたも挫かれ、悲願を息子のフラーテス3世に託すことになったという事である。
エリュマイス王国とパルニ族の支持を受けた新たなアルサケスは、バビロンに進撃してオロデス1世を打ち破り、彼を逃走させ最終的に殺害した。
アルサケス朝におけるアルメニア王国の勢力は駆逐され、新たなアルサケスは北メソポタミアの領土の再奪還のための軍事行動を起こした。
ティグラネス2世の計画は大いに狂ったことであろう。ティグラネス2世はアルサケスを傀儡化し、パルニ族の軍事力を利用しようとしたに違いない。ティグラネス2世がミトラダテス2世の後継者と言う意味合いで「諸王の王」を名乗ったのは、ティグラノケルタ建設前後の紀元前70年頃と思われるが、パルニ族に気遣って過大な王号を慎んだのかもしれない。
しかしパルニ族との関係の悪化は、アルメニア王の軍事的な弱体化をもたらし、後の歴史を大いに狂わせることになった。もしオロデス1世がシナトロケス1世の脅威やエリュマイス王国の反乱にうまく立ち回って政権を維持できていれば、強力なパルニ族騎兵の援助を受ける事でアルメニア・シリア・パルティア連合はローマ帝国と拮抗できたかもしれない。そうするとローマ帝国はシリア・エジプトを確保できず、地中海の北側のみの中規模の帝国に留まった可能性が出てくるであろう。
もしかするとアッバース朝弱体後のイスラーム諸国の政治地図と似たような状況が生まれたかもしれない。
地中海世界はヨーロッパを支配するローマ帝国(フランク帝国)、ギリシャ・小アジア・黒海沿岸を支配するポントス帝国(ビザンツ帝国)、シリア・エジプトを支配するアルメニア帝国(ファーティマ朝)、メソポタミア・イラン高原を支配するアルサケス朝(ブワイフ朝、セルジューク朝)に分割されたかも…。
おっと、お遊びが過ぎたようである。
オロデス1世は反乱者に完敗して歴史から姿を消し、アルサケス朝は再統一された。このままであれば、アルメニア王国との戦争が開始され、北メソポタミアとメディア・アトロパテネを奪回し、その後東方ヘ再出兵してインド方面を平定すると言う流れになるはずであったが、そうはならなかった。
シナトロケス1世の妄執を引き継いだフラーテス3世が、インド方面で力を蓄えたサカ族の支援を受けて逆襲を開始したからである。
次回、アルサケス3世の治世
ニサ出土の陶片史料2639にはパルティア北東部に前78/77年に以前の支配者とは別の新しい王の登場を記録している。
ミトラダテス3世の兄弟(貨幣NO.S30)と思われるこの人物(とその皇子)は、オロデス1世の貨幣を利用する際にデザインを丁寧に修正して自身の貨幣を発行している。
また、バビロン天文日誌において、女王の併記のない王アルサケスとのみ記録する形式に戻るのはオロデス1世が失脚してからである。
オロデス1世の在位中に、仮にミトラダテス3世かシナトロケスが北東諸州と本土パルティアにおけるオロデスの勢力を駆逐したならば、バビロン天文日誌の記録に王妃の名に加えてオロデス1世の個人名が再び記入されたはずである。
オロデス1世の後継アルサケスは、紀元前69/68年まで10年間、個人名や女王名を記載する必要がない単独支配を維持したと思われる。
残存する資料はスーサを平定したオロデスに対する真の脅威が、パルティア北部に登場した事を示している。この次世代の皇子が勢力拡大のため動き、パルニ族の間に次第で支持を集めるようになったのだろう。
しかしながらオロデス1世の死亡の年代について、正確な日付は判明していない。
アルサケス王と妹にして王妃イスプバルザに関する記録の最後の日付は、バビロニア式セレウコス暦236年9月(紀元前76年12月5/6日〜紀元前75年1月3/4日)に始まる天文記録の断片である。
残念ながら、月や星座などの天文記録の詳細が欠けているために236年の何月までの記録であったかを読み取ることが出来ない。
しかし他の短い日誌の断片を比較してオリジナルのテキストを幾分か復元することが出来る。その作業の結果、この粘土板史料の記録期間は2か月間以下、つまり12月まで下ることはできないのではないかとされている。
そして断片が本来属していたオリジナルのタブレットが年末の4ヶ月分の記録であると仮定できるため、オロデス1世の最後の記録は236年12月までとすることが出来るだろう。
そして次の年代の判明する粘土板史料は、237年1月4日(紀元前75年4月5/6日)であり、そこにはオロデス1世時代の「王(の一人である)アルサケス(アルシャカ・ム・ルガル)」と言う書式から「アルサケスが王である(アルシャカ・ア・ルガル)」に戻り女王の名前も併記されなくなったのである。
「173年、即ち237年、アルサケスが王である。第1番目の月の4日目…」
この記録により、236年中にバビロンにおけるオロデスとその王妃の支配が終わったと解して問題ないであろう。
一方、スーサで毎年発行される銅貨の変化は、オロデス1世がカブネシュキール2/3世に対して勝利した紀元前77年1/2月(バビロニア式セレウコス暦234年11月、マケドニア式セレウコス暦235年5月)の後もその支配は安定せず、マケドニア式セレウコス暦236年ディオス月1日(紀元前77年9月19/20日)までにはスーサが新たなアルサケスに奪われた事を示唆している。
このアルサケス朝の皇子は、ニサで権威を認められていたミトラダテス2世の晩年の若い息子と同一人物と思われる。
彼はスーサ征服後、紀元前75年3/4月までにバビロンにも進軍して、オロデス1世を殺害あるいは追放したと思われる。
この皇子がティグリス河畔のセレウキアで発行した初期のテトラドラクマ貨幣の肖像は、成年(15歳)して間もない、年若い人物を描いている。オロデス1世のS34.1貨幣と発行が重複するセルウッドS30.12には同じΣYΜの文字が打たれている。
オロデス1世に対する勝利の直後にS30の貨幣を発行したとすると、彼がスーサを攻略したとき、貨幣の発行した姿よりもさらに2歳若かったという事になる。あるいはバビロニアに進撃したとき、彼は未成年であったという可能性もあるだろう。
オロデスが治世後半に女王の名を併記するにもかかわらず個人名を記録に書かれなかった時期があるのは、ライバルであるこのアルサケスが正式に王号を名乗れない未成年者であったためだったのかもしれない。もっともフラーテス2世は未成年であってもアルサケスを名乗っているので説得力はないが…。
後世のアルサケス朝の貨幣S49の発行者は特定できていないが(以前はパコルス1世の貨幣とされていたが疑問が呈されている)、おそらくはフラーテス4世の息子の一人であろう。
彼も諸王の王と名乗りながら、顎髭のない肖像を一貫して貨幣に刻ませている。またパコルス2世(在位紀元78年〜105年)がヴォロガゼス2世と玉座を争ったときに、彼が年少であった事が知られているが、パコルス2世はその即位時に発行した貨幣(S73)において、顎鬚も口髭もない顔を上に向けているデザインを採用している。
オロデス1世を破ったアルサケス朝の若き皇子は画像上は薄い髭をわずかに認めるため、彼らよりは多少年を取っていた可能性がある。紀元前78/77年にスーサを奪ったとき、彼は13〜15歳くらいであったのではないだろうか。
セレウキア発行のものとされるS30.12の貨幣は、対応する発行者や時期を同定することが困難な特異なものである。
裏面と表面を打刻するための新規のダイスが間に合わず、それぞれ異なる古い貨幣のダイスを再利用したり、既存の貨幣を再打刻したため分類が難しくなった表裏不一致貨幣、「mule」貨幣の一例であろうとされる。S30/S33のミュール貨幣は同じ皇子のより古い肖像を示している。
これはシナトロケス1世が玉座の獲得に最終的に失敗した紀元前70年以後に、作成されたものと考えられている。
S30.12のテトラドラクマ銀貨は表面の胸像は王冠の上に3本の波状の文様で髪を表現している。これは初期のS30貨幣の髪型に酷似しているが、その後描かれなくなったデザインである。
また初期の貨幣状の紙の一部は王冠より下の王の額と頭部にかかっている。これは同時期のスーサの銅貨にもみられる意匠である。
初期のS30銀貨とスーサの銅貨と同様に、マケドニア式セレウコス暦235年にS34.1貨幣と同時あるいはその直後にS30.12の貨幣が発行された可能性が高いであろう。
こうした「mule」貨幣は後のアルサケス発行の貨幣にも事例が見出される。
ヴォノネス1世(在位8年〜12年)のS60とアルタバノス2世(在位10年〜38年)のS61貨幣。
ヴァルダネス1世(在位40年〜45年)のS64.22-30とゴタルゼス2世(在位40年〜51年)のS65.1-3。
ゴタルゼス2世のS66.29貨幣とヴォロガゼス(在位51年〜78年)のS68.1。
ヴォロガゼス2世の大多数のS72貨幣とパコルス2世のS73貨幣。
…などである。
おそらくS30.12貨幣は紀元前77年初期のエリュマイス王国を平定した直後の時期に、既存の貨幣用ダイスを改修し作られたのだろう。
エリュマイス王国征服後、オロデス1世は新しいアルサケス位の請求者に、東半の地方総督の統治権に関して敗北を喫したのだろう。
この敗北の際(オロデス1世が確かにティグラネスの孫だったと仮定して)、パルティアに表れたライバルに対して、祖父であるティグラネス2世からオロデス1世は支援をほとんど受けられなかったようである。
この理由は、ティグラネスが紀元前79年(あるいは紀元前83年)からのシリア遠征により、東方に援軍を送る余裕がなかったためと考えられる。と言うよりも、ティグラネス2世不在をついてエリュマイス王国がアルサケス朝の皇子と同盟して蜂起したと考えるべきだろう。
ティグラネス2世はシリア平定後、挽回できると考えたかもしれないが、実際はローマとミトラダテス6世との戦争に巻き込まれ、こちらに掛かり切りとならざるを得なくなった。アルメニア王国の後ろ盾を失ったオロデス1世は、ティグラネス2世の操り人形であった事を嫌われ(イスブバルザ王妃もティグラネス2世の子か孫かもしれない)、メディアとパルティア、ヒュルカニアのパルニ族に見切りをつけられた。パルニ族は忠誠をミトラダテス2世の末子に切り換え、この王子を支援したと思われる。
その背景には、おそらくはオロデス1世とミトラダテス3世との内戦の隙をついて、パルティアを伺い始めたシナトロケス1世とサカ族の存在があったと思われる。この若いアルサケスは治世の初期に、シナトロケス1世の進撃に対して、カスピの鉄門以東でこれを防ぎ一定の勝利を得たことで、パルニ族の支持を盤石にしたのかもしれない。
判っているのは再起したシナトロケス1世の野望はまたも挫かれ、悲願を息子のフラーテス3世に託すことになったという事である。
エリュマイス王国とパルニ族の支持を受けた新たなアルサケスは、バビロンに進撃してオロデス1世を打ち破り、彼を逃走させ最終的に殺害した。
アルサケス朝におけるアルメニア王国の勢力は駆逐され、新たなアルサケスは北メソポタミアの領土の再奪還のための軍事行動を起こした。
ティグラネス2世の計画は大いに狂ったことであろう。ティグラネス2世はアルサケスを傀儡化し、パルニ族の軍事力を利用しようとしたに違いない。ティグラネス2世がミトラダテス2世の後継者と言う意味合いで「諸王の王」を名乗ったのは、ティグラノケルタ建設前後の紀元前70年頃と思われるが、パルニ族に気遣って過大な王号を慎んだのかもしれない。
しかしパルニ族との関係の悪化は、アルメニア王の軍事的な弱体化をもたらし、後の歴史を大いに狂わせることになった。もしオロデス1世がシナトロケス1世の脅威やエリュマイス王国の反乱にうまく立ち回って政権を維持できていれば、強力なパルニ族騎兵の援助を受ける事でアルメニア・シリア・パルティア連合はローマ帝国と拮抗できたかもしれない。そうするとローマ帝国はシリア・エジプトを確保できず、地中海の北側のみの中規模の帝国に留まった可能性が出てくるであろう。
もしかするとアッバース朝弱体後のイスラーム諸国の政治地図と似たような状況が生まれたかもしれない。
地中海世界はヨーロッパを支配するローマ帝国(フランク帝国)、ギリシャ・小アジア・黒海沿岸を支配するポントス帝国(ビザンツ帝国)、シリア・エジプトを支配するアルメニア帝国(ファーティマ朝)、メソポタミア・イラン高原を支配するアルサケス朝(ブワイフ朝、セルジューク朝)に分割されたかも…。
おっと、お遊びが過ぎたようである。
オロデス1世は反乱者に完敗して歴史から姿を消し、アルサケス朝は再統一された。このままであれば、アルメニア王国との戦争が開始され、北メソポタミアとメディア・アトロパテネを奪回し、その後東方ヘ再出兵してインド方面を平定すると言う流れになるはずであったが、そうはならなかった。
シナトロケス1世の妄執を引き継いだフラーテス3世が、インド方面で力を蓄えたサカ族の支援を受けて逆襲を開始したからである。
次回、アルサケス3世の治世
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うーん、アルサケス朝通史、電子書籍にでもしようかしらんw
てな事はともかく
オロデス1世の治世その3
紀元前78年10月にメディア・アトロパテネから進撃したオロデス1世は、その次の月(紀元前78年10月30/31日〜11月27/28日)にはメソポタミア中部の都市カール・アッシュールに到達したらしい。
この時期に記録されたバビロン天文日誌の記録には、以下の文言が認められるからだ。
「…、…は?カール・アッシュールに向かって転進した…」
しかしこれ以上の詳しい経緯は不明である。
続く9月、10月の天文日誌の歴史に関する部分は完全に失われており、この期間のバビロニア及びエリュマイス王国における軍事活動は予想すら困難である。カール・アッシュールに向かった理由も判然としない。
ただし11月の天文日誌の別の記録の部分には、エリュマイス戦に関しての記録を見出すことが出来る。
この記録からオロデス1世がエリュマイス王国軍に完勝し、講和が結ばれたと推定されている。
「…エラムに行き、エラムの王カブネシュキールと戦った。…その(首都に?)入り、諸都市を…。…、…彼の下にいた僅かな軍隊も、彼の下を離れ、山岳地帯へ逃亡した。…、…、私は(次のように)聞いた。…の時、山岳部に向かった…。…21日、彼はエサギラ神殿の議長の代表とバビロン市民によって…(軍隊?あるいは生贄?)が提供された…、1頭の雄牛および2頭の羊を生贄に捧げた。…、…ギリシャ系市民は戦いの装備をもって来た。そしてナブーシャハレ神殿地区で互いに戦った。」
激戦の結果敗北したエリュマイス王は、根拠は貨幣のみと理由は薄弱ながら、アンザーゼ王妃と一緒に通貨に刻印されているカブネシュキール2/3世だと推測される。
このエリュマイス王が発行した貨幣の既知の例のうち、少なくとも2例には日付がない。
しかし他の貨幣の発行状況などから、おそらくはマケドニア式セレウコス暦で230年(紀元前83/82年頃)の発行と推測される。
その後、彼の貨幣については231年および233-240年(それぞれ紀元前82/81年および80/79-73/72年)発行の一連の破損した貨幣の標本が存在している。
それらの貨幣の多くはカブネシュキールの肖像は潰されている。スーサを征服したオロデスが、先の権力者の権威を貶めるために手に入れた多数のカブネシュキール発行の貨幣を細工して再利用したのであろう。これら貨幣の残存数や再打刻の状況からは、オロデス1世は、スーサの軍勢を紀元前77年の早い段階でカブネシュキールを敗走させたが、その後マケドニア式セレウコス暦237年ディオス月1日(紀元前76年10月8/9日)までにカブネシュキールはスーサの支配の回復し、恐らくマケドニア式セレウコス暦236年の日付のある貨幣を発行したと推測される。
エリュマイスでの(一時的な)勝利の後、オロデス1世は錨状のシンボルを刻印したドラクマ銀貨と銅貨の両方をエクバターナとラガエで発行している。このシンボルは前述の如くカムナスキロス王家の紋章であったものである。
またオロデス1世のスーサ発行の銅貨のいくつかは、王冠の装飾や「アンカー」がダイスではなく職人の手によって追加あるいは除去されているものが存在する。これはオロデス1世が、ミトラダテス3世が発行した貨幣用のダイスを利用して発行し、修正して流通させたか、また逆にオロデス1世の貨幣が彼に反対する支配者によって差し押えられ、政治的理由で再打刻されて利用された可能性を示唆している。
以前に述べたように、ミトラダテス3世は紀元前80年中はオロデス1世によって完全に排除されておらず、パルティアの遠隔地に退くことを強いられたと思われる。
この様な状況では、バビロンにおいても支配者を巡って混乱が続いたことは間違いなく、従って記録者はオロデス1世とミトラダテス3世を区別する必要性が生じたため、バビロン天文日誌の日付部分に王妃の名が併記されたのであろう。
ミトラダテス3世が東方に逃れた可能性を示すかもしれない史料として、少数ながらアンカーを削って消した東方の州マルギアナ製造の貨幣(S34.5)が存在する。
ただし変更は製造地とは別で行われた可能性もあるし、一旦オロデス1世の支配を離れた場合もダイスを破壊しなかったり、再利用した可能性もある。加えてマルギアナなどの遠隔地では製造活動をいったん休止していた可能性も考慮しなければならない。
こうした貨幣上の混乱は、戦乱の時代の特徴であった。
各地のアルサケスの支配地域は縮小し、手に入る銀資源が限られたであろうから、過去のアルサケスを含めて別の支配者の発行した貨幣を手に入れた場合は、その貨幣に再加工する事で自分の貨幣とし、兵士の給与に使われる貨幣不足を補ったのだろう。
平時にはきちんとした独自の意匠を施した貨幣を発行流通させるのが、当時の支配者の流儀であったと思われる。だが内乱の際には軍資金を急遽補充するため、未使用か使用済みに関わらず、このように最小限の修正をしたライバルの貨幣用のダイスを再利用して、貨幣を発行を試みたと思われる。
しかし奇妙な事に再打刻されたS34貨幣の発行量は、「アンカー」を持つ貨幣の登場する時期、つまりエリュマイスにおけるオロデス1世の勝利と同時期の前78/77年を機に増加しているのである。
おそらくは、この再打刻を行った支配者はミトラダテス3世とシナトロケスではないと考えられる。
次回でオロデス1世は最終回。
てな事はともかく
オロデス1世の治世その3
紀元前78年10月にメディア・アトロパテネから進撃したオロデス1世は、その次の月(紀元前78年10月30/31日〜11月27/28日)にはメソポタミア中部の都市カール・アッシュールに到達したらしい。
この時期に記録されたバビロン天文日誌の記録には、以下の文言が認められるからだ。
「…、…は?カール・アッシュールに向かって転進した…」
しかしこれ以上の詳しい経緯は不明である。
続く9月、10月の天文日誌の歴史に関する部分は完全に失われており、この期間のバビロニア及びエリュマイス王国における軍事活動は予想すら困難である。カール・アッシュールに向かった理由も判然としない。
ただし11月の天文日誌の別の記録の部分には、エリュマイス戦に関しての記録を見出すことが出来る。
この記録からオロデス1世がエリュマイス王国軍に完勝し、講和が結ばれたと推定されている。
「…エラムに行き、エラムの王カブネシュキールと戦った。…その(首都に?)入り、諸都市を…。…、…彼の下にいた僅かな軍隊も、彼の下を離れ、山岳地帯へ逃亡した。…、…、私は(次のように)聞いた。…の時、山岳部に向かった…。…21日、彼はエサギラ神殿の議長の代表とバビロン市民によって…(軍隊?あるいは生贄?)が提供された…、1頭の雄牛および2頭の羊を生贄に捧げた。…、…ギリシャ系市民は戦いの装備をもって来た。そしてナブーシャハレ神殿地区で互いに戦った。」
激戦の結果敗北したエリュマイス王は、根拠は貨幣のみと理由は薄弱ながら、アンザーゼ王妃と一緒に通貨に刻印されているカブネシュキール2/3世だと推測される。
このエリュマイス王が発行した貨幣の既知の例のうち、少なくとも2例には日付がない。
しかし他の貨幣の発行状況などから、おそらくはマケドニア式セレウコス暦で230年(紀元前83/82年頃)の発行と推測される。
その後、彼の貨幣については231年および233-240年(それぞれ紀元前82/81年および80/79-73/72年)発行の一連の破損した貨幣の標本が存在している。
それらの貨幣の多くはカブネシュキールの肖像は潰されている。スーサを征服したオロデスが、先の権力者の権威を貶めるために手に入れた多数のカブネシュキール発行の貨幣を細工して再利用したのであろう。これら貨幣の残存数や再打刻の状況からは、オロデス1世は、スーサの軍勢を紀元前77年の早い段階でカブネシュキールを敗走させたが、その後マケドニア式セレウコス暦237年ディオス月1日(紀元前76年10月8/9日)までにカブネシュキールはスーサの支配の回復し、恐らくマケドニア式セレウコス暦236年の日付のある貨幣を発行したと推測される。
エリュマイスでの(一時的な)勝利の後、オロデス1世は錨状のシンボルを刻印したドラクマ銀貨と銅貨の両方をエクバターナとラガエで発行している。このシンボルは前述の如くカムナスキロス王家の紋章であったものである。
またオロデス1世のスーサ発行の銅貨のいくつかは、王冠の装飾や「アンカー」がダイスではなく職人の手によって追加あるいは除去されているものが存在する。これはオロデス1世が、ミトラダテス3世が発行した貨幣用のダイスを利用して発行し、修正して流通させたか、また逆にオロデス1世の貨幣が彼に反対する支配者によって差し押えられ、政治的理由で再打刻されて利用された可能性を示唆している。
以前に述べたように、ミトラダテス3世は紀元前80年中はオロデス1世によって完全に排除されておらず、パルティアの遠隔地に退くことを強いられたと思われる。
この様な状況では、バビロンにおいても支配者を巡って混乱が続いたことは間違いなく、従って記録者はオロデス1世とミトラダテス3世を区別する必要性が生じたため、バビロン天文日誌の日付部分に王妃の名が併記されたのであろう。
ミトラダテス3世が東方に逃れた可能性を示すかもしれない史料として、少数ながらアンカーを削って消した東方の州マルギアナ製造の貨幣(S34.5)が存在する。
ただし変更は製造地とは別で行われた可能性もあるし、一旦オロデス1世の支配を離れた場合もダイスを破壊しなかったり、再利用した可能性もある。加えてマルギアナなどの遠隔地では製造活動をいったん休止していた可能性も考慮しなければならない。
こうした貨幣上の混乱は、戦乱の時代の特徴であった。
各地のアルサケスの支配地域は縮小し、手に入る銀資源が限られたであろうから、過去のアルサケスを含めて別の支配者の発行した貨幣を手に入れた場合は、その貨幣に再加工する事で自分の貨幣とし、兵士の給与に使われる貨幣不足を補ったのだろう。
平時にはきちんとした独自の意匠を施した貨幣を発行流通させるのが、当時の支配者の流儀であったと思われる。だが内乱の際には軍資金を急遽補充するため、未使用か使用済みに関わらず、このように最小限の修正をしたライバルの貨幣用のダイスを再利用して、貨幣を発行を試みたと思われる。
しかし奇妙な事に再打刻されたS34貨幣の発行量は、「アンカー」を持つ貨幣の登場する時期、つまりエリュマイスにおけるオロデス1世の勝利と同時期の前78/77年を機に増加しているのである。
おそらくは、この再打刻を行った支配者はミトラダテス3世とシナトロケスではないと考えられる。
次回でオロデス1世は最終回。
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